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横浜地方裁判所 昭和58年(わ)604号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

未決勾留日数中一八〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和五四年六月ころから株式会社幸信工業(代表取締役黒澤保)に雇われ、富士電機製造株式会社に派遣されて、同社の下請として幸信工業が請負った水力発電機プロペラの研磨仕上作業に従事していたものであるが、昭和五六年夏以降、不景気のため幸信工業の経営状態が次第に悪化し、被告人ら従業員の給料の支払が毎月のように二、三日遅れるようになり、これに加えて、当初毎月五日であった給料支払日が一〇日に、さらには一五日に繰り下げられたりしたため、被告人方においても家計のやりくりに苦慮していたところ、昭和五八年三月一五日に支払われるべき同年二月分の給料が、三月一八日になっても支払われなかったことから、被告人は、前記黒澤保に対し、家計の窮状を訴えて給料の支払方を要求し、同月二二日に、同月三一日までは銀行に振り込まないようにと言われて、給料相当額の額面二三万六六二一円の先日付小切手(振出日昭和五八年三月三一日)の交付を受け、妻A子に対して、右小切手を三月三一日までは銀行に振り込まないようにと説明して手渡したが、先日付小切手の意味を十分に理解できなかったA子において、右小切手を同月二八日に銀行に振り込んでしまったため、黒澤において妻公子に指示するなどして、右小切手の不渡りを防ぐべく、慌てて資金の手当てをして右小切手の決済をするといったことがあり、そのため、被告人は、同月三〇日午前七時過ぎころ、黒澤から電話で「小切手を期日前に振り込んでは困る、会社が倒産するではないか。」と文句を言われたうえ、国鉄関内駅まで来るように言われたので、A子を伴って関内駅に赴き、同日午前九時四〇分ころ、同駅で黒澤に会い、小切手につき知識のなかった妻A子が小切手を振り込んだ事情を話し、A子ともども詫びたところ、黒澤は機嫌を直して了解した。その後、被告人は、当日満期の手形や、会社従業員に給料として既に渡していた先日付小切手などの決済資金に窮していた黒澤から、金策に行くについて同行するよう求められたのでこれを承知し、同人と共に渋谷に行き、同人が金策に行っている間、渋谷駅で待っていたが、結局、同人は金策ができずに戻ってきたため、同人に同道して川崎市内の同人宅に立ち寄った後、同日午後三時ころ、再び同人と共に関内駅に戻った。同駅で下車後、大通公園を幸信工業事務所に向かって歩き始めたが、途中、黒澤は、「ちょっと会社に行くのは待ってくれ、喫茶店でもないかな。」などと言い出し、さらに、「会社も倒産したし、どうしようもないんだ、借金で首も回らなくなったし。」などと話をしながら大通公園をそのまま歩き続け、その先にあったホテル「さわやま」を指して、「ここに入ろう、ちょっと休んでいこう。」と言ったので、被告人も給料のことで話があると思い、同日午後三時一五分ころ、黒澤と共に右ホテルに入った。

(罪となるべき事実)

被告人は、前記のとおり、昭和五八年三月三〇日午後三時一五分ころ、黒澤保(当時五七歳)と共に横浜市中区弥生町三丁目二九番地所在のホテル「さわやま」に入り、同ホテル二階二〇三号室の三畳間内の座机に同人と向かい合って座り、備付け冷蔵庫からビールを出してそれぞれ飲み始めたところ、同人から、「実は給料のことでちょっとお前に話があるんだけど、今後の給料のことはどうなるかわからない。」などと言われ、被告人において、「どうしてですか。」と問い返したのに対して、同人が「どうしてもこうしても会社が危いんだ。」と答えるなど、今後の会社従業員に対する給料の支払見込みなどについてのやりとりを一五分か二〇分位しているうち、黒澤から「会社は倒産寸前に追い詰められ、借金で首が回らないまでに追い込められ、従業員の給料も払えなくなったので、自分は死にたい、自分は一億円の保険に入っているから、私が事故で死ねば一億円近い金が入るんだ、千葉君、悪いんだけど、男だと思って私をやってくれないか。」と自己を殺害することを懇請され、被告人が、「それはできません。」と言って断わっても、なお重ねて、「私もここまで追い詰められてしまったから、申し訳ないが何とか頼む、子供からも金のことで請求されているんだ、千葉君、お前も大変だろうが、会社のためと皆のためを思って何とかしてもらえないか。」「何とかしてくれ、最後のお願いだ。」「今回のお前の場合は事情が違うんだ、私はこういうふうに苦しんできて、こういう事情でやったんだから、もしかしたら三年か五年で出れるんだ、その間、私が面倒をみてやる。」「うちのやつら、話の分らない人間じゃないから、それはやってくれると思うから、やったら電話をしてくれ。」「一千万か二千万、お前にやるからやってくれ、それだったらお前も貯金が合うんじゃないか。」「事故死じゃないと現金がおりない、傷害だけだと入院費しかおりないから、完全に殺してもらわないと保険金がおりない、だから中途半端にやらないで完全にやってくれ。」「まずビールびんで後頭部を殴ってくれ、それでうまくいかなかったら濡れタオルで首を絞めてくれ、死んだと思ったら、すぐ風呂場へ置いてくれ。」などと繰り返し殺害を懇請され続けたため、遂に被告人においても黒澤の右懇請を承諾して、同人を殺害することを決意するに至り、同日午後四時一〇分ころ、前記ホテル「さわやま」二階二〇三号室において、同室内六畳間の洋服入れの前付近に立った同人の後頭部を左手に持ったビールびんで三、四回強打し、気を失ってその場にうつ伏せに倒れた同人の頸部に、水に濡らしたタオルを巻きつけて絞めつけ、同人を同室内の浴室内に引き込んだが、同人がまだ呼吸していたので、同所において、さらに右ビールびんで同人の後頭部を三、四回強打したうえ、右タオルで同人の頸部を絞めつけるなどし、同人を殺害しようとしたが、同人が意識不明状態となり、鼻や口から出血し、額が冷たくなったのを認めて、殺害の目的を遂げたものと判断してその場を立去ったため、同人に対して全治三週間を要する顔面うっ血・眼球結膜出血・鼻出血などを伴う頸部絞傷、頭部打撲などの傷害を負わせたに止まり、殺害の目的を遂げなかったものである。

(証拠の標目)《省略》

(普通殺人未遂の訴因に対し、嘱託殺人未遂の事実を認めた理由)

一  検察官は、被害者黒澤保は、自己を殺害することを被告人に嘱託した事実はなく、本件は普通殺人未遂の事案であると主張し、弁護人は、被告人は、被害者から殺害を嘱託されたものであって、本件は嘱託殺人未遂に該当する旨主張し、被告人も当公判廷において、第二回公判期日以降、右弁護人の主張に沿う供述をしているところ、当裁判所は、判示のとおり、嘱託殺人未遂の事実を認めたので、以下その理由を説明する。

二  被告人は、第二回公判期日以降、当公判廷において、「昭和五八年三月三〇日午後三時ころ、関内駅で下車して会社に戻ろうとして、被害者と二人で大通公園を歩いていると、被害者黒澤保が、喫茶店かホテルがないかと言い出し、そのまま歩いていくとホテル『さわやま』があり、被害者が、ここにホテルがあるから入ろうと言い出したので、自分も一緒に入った。従業員に案内されて、二〇三号室に入って三畳間の座机に向い合わせに座り、二人でビールを飲みながら、今後の会社従業員に対する給料の支払見込みなどについてやりとりしたあと、被害者から、『実は給料のことでお前に話があるんだけど、今後の給料のことは、私はどうなるか分らない、会社自体が危いんだ、私が事故で死ねば一億円近い金が入るんだ、千葉君、悪いんだけど、男だと思って私をやってくれないか、私もここまで追いつめられてしまったから、申し訳ないが何とか頼む。』などと殺害を懇請され、『いや、それはできません。』と断わったものの、さらに被害者から『私もここまで追い詰められてしまったから、申し訳ないが何とか頼む、子供からも金のことで請求されているんだ、千葉君、お前も大変だろうが、会社のためと皆のためを思って何とかしてくれ、最後のお願いだ、事故死じゃないと現金がおりない、傷害だけだと入院費しかおりないから、完全に殺してもらわないと保険金がおりない、だから中途半端にやらないで完全にやってくれ、まずビールびんで後頭部を殴ってくれ、それでうまくいかなかったら濡れタオルで首を絞めてくれ、死んだと思ったら、すぐ風呂場へ置いてくれ。』などと重ねて懇請され、二〇分位しつこく言われ続けたので、右依頼を承諾して被害者を殺害しようという気になった、被害者は、ホテルの客室の六畳間の洋服入れの前に、三畳間の方を向いて立ったので、被害者から指示されたとおり、三畳間の座机の上にあったビールびんを左手で持ち、このビールびんで被害者の後頭部を三、四回殴ったところ、被害者はよろけるように倒れて三畳間の方に向ってうつ伏せになった、ビールびんを三畳間の座机の上に戻し、タオルを風呂場の水道の水で濡らしてきて、被害者の首に巻いて絞めつけた、死んだと思ったので、被害者に言われたとおりに、被害者をうつ伏せのまま引きずって行って風呂場に入れた、しかし、まだ被害者が呼吸していたので、再びビールびんを取って来て被害者の後頭部を三、四回殴り、首に巻いたままになっていたタオルでさらに首を絞めつけた、被害者の額を手でさわってみると冷たくなっていたので完全に死んだと思いホテルから出た。」旨供述している。(以下右供述を「被告人の公判供述」という。)

そこで、右の被告人の公判供述の信用性について検討するに、以下に詳細に述べるように、右供述は具体的詳細であって、特に不自然・不合理なところも無く、後記のような被告人の性格、公判廷における供述態度に照らし、また、被害者と給料支払いのことで口論し、かっとなって殺そうと思った旨の被告人の捜査段階から第二回公判期日において被告人の公判供述がなされるまでの間の被告人の供述(以下「被告人の捜査供述」という。)と対比して、その信用性を担保すべき事情が多く認められるのであるから、これを十分に信用することができるというべきであり、したがって、右被告人の公判供述に前掲関係各証拠を総合すれば、判示事実はすべてこれを優に認めることができる。

1  被告人の公判供述によれば、本件犯行の動機は、給料が毎月のように遅配になり、特に、二月分は一〇日以上も遅配となったうえ、被害者の金策も失敗に終わったことを知っていて、会社の将来を案じていた被告人が、被害者から会社の窮状を訴えられ、一億円の保険金を取得できれば会社の負債もなくせるし給料も支払えるから、自分を殺してくれと執拗に要請されて、被害者を殺害することを決意したというのであるが、右のような動機は、給料の遅配や、金策の失敗、会社倒産のおそれなどという本件の背景事情とのつながりの点でも、殺意との結びつきにおいても自然であり、給料支払いのことで被害者と口論となり、被害者が責任逃れの答えをしたため激昂したという動機(被告人の捜査供述)が、それのみでは必ずしも確定的殺意にまではつながらないと考えられることに比し、より自然であること(従って、被告人が当公判廷で供述するように、取調担当の警察官や検察官から、動機がおかしい、納得できないと言って追及されたというのは至極当然のことであろうと思われる。)

2  被告人が、捜査段階から公判段階まで一貫して供述している事実及び当裁判所の取り調べた関係各証拠によって裏付けられる事実の中には、以下(一)ないし(七)のように、被告人の公判供述の方が、被告人の捜査供述に比べ、より自然で合理的であると考えられる事実がかなり認められること

(一) 被害者は、本件の直前、まず自らホテル「さわやま」に入ろうと言い出し、自らホテルのフロント係と交渉し、ホテル代も支払っているが、単に給料支払の話などをするために、喫茶店代りとはいえ、わざわざ連れ込みホテル風のホテルを利用するというのはいかにも不自然であり、むしろ、被害者が被告人の殺害を嘱託するため人目につかない場所として本件のホテル「さわやま」を利用したと見る方が自然であること

(二) ホテル「さわやま」に入ってから、被告人が被害者の殺害に至るまでの間の両者のやりとりは、せいぜい、被告人が他の従業員の給料の支払をどうするのかと強い口調で言ったのに対して、被害者が、それは自分の責任だ、あんたがどうこう言う必要はないと言った程度であって口論と言えるかどうかも疑問であり、ましてや二人で怒鳴り合うとか大声でののしり合うなどの口論は一切なかったことや、当時被告人に激昂している様子が見受けられなかったことについては被害者自身が供述しているところであって、右の程度のやりとりで、被告人が激昂して殺意までも抱いたというのは不自然不合理であるが、被告人の公判供述に従うならば、口論の有無やその程度は、被告人の殺意と無関係であって、何ら問題とするに足りないこと

(三) 犯行態様に関する被告人の供述は、捜査、公判を通じ最初被害者をビールびんで殴打した場所について供述の変遷があるものの、一度被害者をビールびんで殴打し、濡れタオルで首を絞めてから、被害者を浴室内に引き入れ、まだ被害者が息をしていたので、再度ビールびんで殴打し、濡れタオルで首を絞めたとする点では一貫しており、犯行現場に格闘の跡もなく乱れがまったく認められないこと、被害者の頭部の打撲傷は一か所にしかなく、同一か所を繰り返して殴打したと認められることなどの客観的事実とも矛盾がなく、信用することができると考えられるところ、右のように、被害者の息の根を止めるべく執拗に敢行された犯行態様からすれば、本件は明らかに確定的殺意に基づいて沈着冷静に敢行された犯行といわざるをえないのであって、口論の末の一時的な激昂に基づく犯行というよりは、むしろ、被害者からの「完全に殺してもらわないと保険金がおりないから、中途半端にやらないで完全にやってくれ。」との嘱託を受け、右の依頼を忠実に実行するために行われた犯行という方が、犯行態様と整合していると考えられるうえ、犯行態様が、被告人が捜査官に対して供述し、再現してみせているように、三畳間の座机の前に座っていた被害者の後頭部を右手で押さえつけ、顔を座机の上につけたままその後頭部を左手に持ったビールびんで一〇回位殴打したのであるならば、被害者が気絶して右側に倒れたとしても、座机の上のコップ、灰皿、眼鏡などに乱れを残さないことは考えられず、実際には三畳間の座机の上の状況には何ら乱れが認められないのであるから、被告人の公判供述のように、六畳間で被害者を殴打したという方がより客観的状況に合致していること

(四) 被告人は、犯行後間もなく、ホテル「さわやま」のフロント係有村ヨシに「一人は、いるからね。」と言って同ホテルを出ているが、その時には特に変った様子はなく、普通の態度であったこと、そのあと、幸信工業事務所の本多輔良に電話をかけているが、その時の声は落ち着いた感じであり、それから間もなく、地下鉄伊勢佐木長者駅出入口付近で同人と会った際にも、ベンチに座ってたばこを吸い、同人に事情を説明したことなど、犯行後余り時間の経過していない時点においても、落着いており、興奮したり激昂するなど取り乱していた様子はまったくうかがわれないのであって、被告人の捜査供述のように激昂によって犯行に及んだ場合の犯行後間もない時期における犯人の態度としては不自然であり、被告人の公判供述のように、嘱託による犯行の場合のそれと見るならばより自然であると考えられること

(五) 被告人は、犯行後、被害者の妻黒澤公子にも電話をかけているが、激昂によって人を殺害した犯人が、自首に先立って、先ず被害者の妻に電話をかけることは、特段の事情がない限り、通常の場合考え及ばない行動であると思われ、むしろ、被告人の公判供述のように、「被害者の指示に従って電話したもので、積極的に自分の家族の面倒まで見てもらうために電話したのではないが、電話しないと、自分の方が本当に頭に来てやったと思われては困ると思った。」という心情に理解できるものを見出すことができること

(六) 被害者は、本件犯行により、全治約三週間を要する傷害を負わされ、一時的にせよその生命を危険な状態にまで陥らしめられるという被害を受けたにもかかわらず、被害後三回にわたって捜査官から事情聴取され、また、当公判廷にも証人として喚問されているそのいずれの場合にも、一貫して、悪いのは自分の方で、被告人には責任はないから寛大な処分を望む旨供述し、被告人に慰謝料なども請求するつもりはないと述べ、寛大な処分を望む旨の嘆願書も作成するなどしているのであって、このような言動は、被告人の捜査供述のように、被告人以外の従業員の給料の支払見込み程度のことで口論をし、その間、暴言を吐いたこともないのに、理不尽にも危うく殺されかけたうえ、一命は取り止めたものの、全治三週間を要する傷害を負わされた被害者の言動としては、いかにも不自然で理解し難いものと言わざるをえないが、被告人の公判供述のように、被害者が被告人に自己の殺害を嘱託したのであれば、むしろ自然な成り行きであって十分に理解することができるものであること

(七) 《証拠省略》によれば、被告人と被害者がホテル「さわやま」の二〇三号室に入ったのは、犯行当日の午後三時一五分ころであり、被告人が犯行に及んだのは午後四時一〇分ころであると認められるところ、被告人の司法警察員に対する昭和五八年三月三〇日付、同月三一日付及び四月五日付各供述調書にはいずれも給料のことで被害者と一時間ばかり口論した旨の記載があるが、右各供述調書及び黒澤保の検察官及び司法警察員(二通)に対する供述調書に記載されている被告人と被害者のやりとりの内容から見ても、そのやりとりが一時間あまりあったとは到底認められないばかりか、被告人と給料支払のことでやりとりした時間は一五分か二〇分位で、話を打ち切って帰ろうとした時被害にあったという被害者の公判供述とも時間的に符合せず、右供述記載は信用できないが、被告人の公判供述のとおり被害者と給料支払のことでやりとりがあったあと、約二〇分位被害者から執拗に殺人の嘱託をされて殺害を決意したとすれば、時間的にも合理的な説明がつくと考えられること

3  被告人は、第二回公判期日において、殺意の発生時期に関し、捜査段階での供述と異なる供述をしたことについて、裁判長から二、三問の質問を受けていた際、突然「裁判長、お願いです。」と叫んで、被害者から嘱託された事実を供述したものであるところ、以下(一)ないし(四)のとおり、それ以後の被告人の当公判廷における供述態度、右供述をなすに至った動機などの点についても、被告人の公判供述の信用性を裏付ける事情が認められること

(一) 被告人は、第二回公判期日において被害者からの嘱託の事実を明らかにして以降、弁護人、検察官、裁判所からそれぞれの質問に対して、一貫して右供述を維持し、その事実関係について詳細に供述していること

(二) 被告人の当公判廷における供述態度には、それぞれの質問に対して、誠心誠意応答しようという真摯なものが感得され、生来の理解力、表現力の乏しさから、質問の意味が十分理解できずに的外れの答えをすることはあるものの、質問に対して言いよどむ、応答を避ける、考え込む、矛盾点を追及されて前の主要な供述を撤回、変更するなどの態度はまったくみられないこと

(三) 被告人は、捜査段階から第二回公判期日の途中まで、嘱託の事実を秘匿し続け、前記のように、第二回公判期日の終わりに至って初めてその事実を述べるようになった心境について、当公判廷において、「捜査段階では被害者との約束を守ろうという気はあったし、調書ができてからひっくり返すと取調がやり直しになったりして面倒になるので黙っていた、第一回公判期日においても、起訴事実を認めれば早く事件の解決がつき、家に帰って働けるのではないかと思い、また、被害者本人が詐欺罪になるのであくまでも自分が罪を背負わないとまずいんじゃないかと思って認めた、しかし、二か月も勾留されていて、何で自分だけが馬鹿をみなければいけないのかという気持ちになり、また、公判廷でいろいろ質問されると矛盾が出てくるし、よくよく考えてみると、この件はどうも自分の不利になったんでは損だと思い、真実を話す気になった。」旨供述しているところ、被害者との約束を守ろうとしたことは被告人の真面目、誠実、実直な性格からしても首肯しうるところであり、裁判を早く終わらせて家に帰って働きたいと考えたことも、被告人の真面目な勤務状況や家計の苦しい生活状態に照らし、心情として十分に理解できるものであること

(四) 一般的に、嘱託殺人の主張は、事実に反する弁解、就中その場逃れの場当り的弁解にはそもそも適さないものと考えられるうえ、被告人は、既に第一回公判期日前に、伊勢佐木警察署において本多輔良と接見した際、同人に対して嘱託の事実を打ち明けており(証人本多輔良の当公判廷における供述(第七回公判期日におけるもの))、また、被告人の公判供述によれば、第一回公判期日前の昭和五八年五月一六日に弁護人と第一回目の接見をした際にも弁護人に対し嘱託の事実を打ち明けていることが認められるのであって、被告人の公判供述は、質問に対する返答に窮して、その場の思いつきで供述されたものとは認められず、真実性が高いと思料されること(なお前記第七回公判期日における証人本多輔良の供述の信用性について一言すると、右供述は、犯行後被告人と会って、被告人を自首させた状況及び伊勢佐木警察署における被告人との接見状況について極めて具体的詳細で、不自然不合理なところもなく、主尋問反対尋問を通じて一貫していること、被告人の公判供述ともよく一致していること、被告人と接見して被告人から嘱託の事実を打ち明けられた際、かっとなって殺した場合と頼まれて殺した場合ではどちらが刑が重いか分らず、嘱託された確実な証しもないのだから捜査が振出しに戻って厄介なことになるのではないか、それならば警察の人も随分同情してくれているので、かっとなってやったという供述を通した方が早く出られるのではないかと考えて、被告人に対して、男と男の約束だから絶対に言うなと口止めした旨の供述は、法律知識に乏しい一般人の考え方として十分理解しうるものがあり、かつその時の状況などに照らしても迫真性が認められることなど、前記の証人本多輔良の当公判廷における供述は全体として十分に信用することができるというべきである。)

4  《証拠省略》から認められる、後記(一)ないし(七)の各事実を総合すれば、被害者には、事故死を装って生命保険金を取得しようとしたことについて強い動機があったことが推認され、したがって、被害者が被告人に自己の殺害を嘱託したことは、十分に蓋然性があるといわざるを得ないこと

(一) 本件犯行当日である昭和五八年三月三〇日現在、幸信工業は、大島工業に対する約一八〇〇万円の負債をはじめ、高利貸やサラ金からの借金を含めて、少なくとも合計約五〇〇〇万円ないし六〇〇〇万円に上る多額の負債をかかえており、既に三月一五日に、額面二五〇万円の手形を決済することができずに不渡りを出している状況であったうえ、従業員に対し二月分の給料として渡していた三月三〇日付の先日付小切手の決済を当日の午後三時までにはしなければならず、また、三月三〇日満期の大島工業、巽工業などに支払う約束手形の決済資金などとして、約一〇〇〇万円が入用であり、当日中にこれらの資金調達が是非とも必要であったのに、被害者において当日被告人を連れて渋谷に金策に行ったものの徒労に帰して金策の目途が立たず、当日の午後三時ころには、前記債権者や会社従業員などが会社事務所につめかけて来て、支払の督促をしている情勢であって、幸信工業の経営状態はまったく行き詰まった倒産寸前の状態であり、被害者としては、資金調達の目途がつかないままでは会社事務所にも戻れない切羽詰った状況に追い込まれていて、進退に窮していたと認められること

(二) 被害者黒澤保は、住友生命保険相互会社との間で、(1)昭和五七年七月一日被保険者株式会社幸信工業代表取締役黒澤保、保険契約者及び受取人株式会社幸信工業、一五年満期、満期保険金五〇〇万円、死亡保険金五〇〇〇万円、災害死亡保険金一億円の生命保険契約を、(2)同年一一月一日被保険者及び保険契約者黒澤保、受取人黒澤公子、二〇年満期、満期保険金二五〇万円、死亡保険金二五〇〇万円、災害死亡保険金五〇〇〇万円の生命保険契約を、さらに(3)昭和五八年二月一日被保険者株式会社幸信工業の役員及び従業員、保険契約者及び受取人株式会社幸信工業代表取締役黒澤保、保険金額役員一二〇〇万円、男子従業員五〇〇万円、女子従業員三〇〇万円(災害保障特約付)の団体定期保険契約を、それぞれ締結しているところ、これらはいずれも幸信工業の経営状態が悪化している時点で締結されたものであるばかりでなく、右(1)の保険契約については、前記(一)のように幸信工業の経営が苦境に陥っても、さらには昭和五八年四月中旬幸信工業が倒産し、被害者が無職無収入となって子供から生活費をもらって暮している状態になってもなお月額一四万円以上の高額の保険料を支払い続けていたこと

(三) 黒澤保は、当公判廷において、被告人に自己の殺害を嘱託した事実はない旨供述しているが、その際、検察官から保険金取得の目的がなかったことを裏付ける理由にまで立ち入って尋問されていないのに、保険金取得目的ならば、前記(二)(2)及び(3)の保険契約を失効させたりしないとまで、明らかに先走った供述をするなど、同証人の当公判廷における供述の全体を通じて、同証人が保険契約のことにこだわり、本件によって生命保険金の不正取得を図ったとの疑いを受けることを必要以上に気にかけていることが看取されること

(四) 前記(二)(1)の保険契約には、責任開始日から起算して一年以内の自殺については保険金を支払わない旨の免責条項があり、その趣旨は、契約内容を分りやすく解説した「ご契約のしおり」にも明示されていて、契約者はこれを容易に知りうる状況が認められるところ、本件犯行日である昭和五八年三月三〇日には、右保険の責任開始日から一年を経過していなかったのであるから、事故死を装う以外に生命保険金を取得する方法がなかったこと

(五) 被害者は、昭和五八年八月二九日に縊死自殺しており、その間、前記(二)(1)の保険については、前記のように保険料の払込みを続け、同年五月二四日には、保険金受取人を株式会社幸信工業から既に離婚していた(同年七月に再度婚姻)妻公子に変更していて、自殺の日が右保険の責任開始日から一年以上経過していたため、結局、黒澤公子が五〇〇〇万円余りの死亡保険金を取得していることなどが認められ、また、自殺に当たって遺書として書いたと認められるメモには、「甲子にわ何も頼みません」との記載があるが、単に病気を恐れての、あるいは資金の目途が立たないことを悲観しての自殺であって、保険金取得を考えていなかったとすれば、ことさら右のようなことを短いメモ程度の遺書に書き止める必要性があるとは考えられないことなどからすれば、被害者の自殺は、生命保険金の取得が直接の動機であるか否かはともかく、自殺の結果、保険金が支払われることを十分意識してなされたものと認められること

(六) 被害者の性格は、周囲の者からみて、はったりがあり、自分さえ良ければいい勝手な人、見えっ張り、ワンマン、おしゃれ、二枚舌、一般に考えられないことをする人、なんか人を馬鹿にするというようなところがあるなどというのであって、このような性格からすれば、本件のように事故死を装って生命保険金を取得しようと企てることも、あながちありえないこととはいえないと考えられること

(七) 本多輔良、本件犯行直後、地下鉄伊勢佐木長者町駅で被告人と会った際、被告人から事情を聞いて、直感的に、保険金取得目的の偽装殺人ではないかとの疑いを抱き、被告人にその場で、偽装じゃないんだろうなと言った事実が認められるところ、同人は、右のような疑いを抱いた理由を、当公判廷においては述べていないものの、同人が幸信工業の事務所の責任者で、営業面を担当し、会社の経理状態や被害者の性格などについてもよく知っていたことからすれば、同人が右のような疑いを抱いたことは、それなりの理由に基づいたうえでのことと思料されるのであるから、右本多をして、右のような疑いを抱かせるに足りるだけの事情が実際に存在したと考えられること

三  これに対して、検察官は、被告人の公判供述について、

(1)  被害者の自殺願望または殺人の嘱託を最初に聞いた時期に関する被告人の供述が転々としていて一貫性がないこと

(2)  被害者がホテル「さわやま」に入った目的は、被告人と給料支払いのことで話合いをするためであることが明らかであるところ、被害者は、既に死ぬことを決意し、被告人にも自殺願望を打ち明け、または殺人の嘱託をしていたというのであるから、そのような者が自殺に先立って被告人と給料支払いのことで話合いをするとは考えられず、被告人の供述には自己矛盾があること

(3)  ホテル「さわやま」客室内で被害者から殺人の嘱託を受けた状況に関する供述のうち、(ア)被害者が「このタオルで殺してくれ」「殺したら風呂場へ死体を持って行け」と言って殺人の嘱託をしてから、被告人と給料支払いのことで話をしているというのは不合理であること、(イ)被害者が、被告人に、今回の場合は事情が違うから短い刑期で出られると説明したというが、殺人を嘱託されたという事情が明らかになれば、被害者の保険金取得の目的が達せられず、右のような説明をするのは不合理なこと、(ウ)被害者が被告人に、服役中の家族の生活の面倒をみてやると言ったというが、被害者がそう言いながら、自分の妻や子にその旨の連絡をしていないのは不合理なこと

(4)  被告人は、最初の攻撃方法に関して、公判供述では捜査段階での供述と異なり、六畳間の洋服入れの前で被害者を殴ったというが、これは、口論の末立腹して被害者を殴打するにしろ、また被害者から嘱託を受けて殴打するにせよ、座っている被害者を殴打する場合に比べて攻撃力が弱まる点で矛盾があること

(5)  被害者が生命保険金を目的として殺害を嘱託したのであれば、単に、最初から首を絞めて殺し、死体をその場に放置すれば足りるのであって、被害者が最初にビールびんで殴打するように指示したり、旅館の迷惑を考えて死体を風呂場に入れるように指示するのは、被害者の目的と矛盾していること

(6)  被告人は、被害者から、自分の家族の者は話の分らない人間ではないから電話すればあとの面倒をみてくれると言われたので、犯行後、被害者の妻に電話をかけたというが、その電話の内容は、被害者を頭に来てやってしまった、あとのことはよろしくお願いしますという程度で、服役中の被告人の家族の面倒をみてくれることまで相手に伝わったかどうかわからないというのであって、電話をかけた動機と電話の内容が首尾一貫しないこと

(7)  被害者が一命を取りとめ、死亡保険金を取得する目的を達することができなかったのであるから、嘱託の事実を隠す必要がなくなり、かつ、取調担当の警察官や検察官からも弁解の機会を十分に与えられたにもかかわらず、その事実を述べていないこと

(8)  勾留中の接見状況に関して、被告人は自分の肉親にも嘱託の事実を打ち明けていないこと、勾留中に被害者と会いたかった理由につき、嘆願書が欲しかったとか、被害者の口から証明してもらいたかったなどと自己矛盾の供述をするなど不可解な点があること

(9)  被告人は、第二回公判の終わりになって初めて嘱託の事実を明らかにした理由について、二か月も勾留されていて、何で自分だけが馬鹿をみなければならないのかという気持ちになったと供述しているが、もしそうであるならば、同公判期日の冒頭から嘱託の事実を明らかにして然るべきであるのに、実際は、同公判期日の終わり近くになって、殺意の発生時期について裁判長から重ねて質問を受けて初めて嘱託の事実を明らかにしたもので、被告人の供述する理由は不合理であること

(10)  被告人は、黒澤保に対する証人尋問の際、同証人を尋問する機会を与えられながら、一言も尋問をしていないこと

の諸点を挙げて、被告人の公判供述は信用できないと主張するので、それぞれ検討する。

まず、被告人の当公判廷における供述態度からすると、被告人は、生来、理解力、表現力に乏しく、質問の意味を理解し、的確に応答する能力が一般人より劣っており、特に個別詳細にわたる質問に対しては、質問の意味を取り違えたり、質問が適切でないと、すぐ混乱をきたすなどして要領を得なかったり、的外れの答えをする傾向がかなり強く認められ、したがって、このような被告人の供述を検討するに当たっては、思い違いや混乱のために答えたと思われる部分のみを取り上げて供述の信用性を論ずるのは相当でなく、被告人の供述全体から、その言わんとする真意を汲み取り、理解する態度で判断することが肝要であると考える。

このような観点から、検察官の主張を検討するに、前記(1)、(2)、(3)(ア)(イ)、(10)の各主張については、以下に述べるとおり、被告人の供述に矛盾や不合理さがあるとはいえず、被告人の公判供述の信用性に疑いを生ぜしめるものとはいえない。

(1)の点については、被告人の公判供述を全体として理解すれば、被害者の自宅より関内に戻る電車の中からホテル「さわやま」に至るまでの間、被害者は、会社の経営が行きづまったので死にたいと自殺願望を何度か被告人にもらしはしたが、殺人の嘱託をしたことはなく、殺人の嘱託はホテルに入ったあとである旨の供述であることは明らかであり、ただ、被告人は、最初被害者から殺してくれと頼まれたのはいつかと質問されて、被害者がホテルに入る前から自殺願望をもらしていたことを想起し、後で考えれば右の自殺願望の告白も自分に殺してくれと頼む意味であったと考えて、被害者から自殺願望を聞いた時点を答えたか、単純に質問の意味を取り違えて同様の答えをしたため、一見検察官主張のような矛盾が生じたと思料されること

(2)の点については、右に述べたとおり、被告人の公判供述は、被害者はホテルに入る前には被告人に殺人を嘱託したことはないというのであるから、被害者がホテルの中で被告人に殺人の嘱託をしようと考え、給料支払いの話をするように言って被告人とホテルに入ったということも十分考えられ、ホテル客室内で実際に給料支払いの話をしていることについても、従業員の給料も支払うことができない程にまで会社の経営が行き詰まったことが被害者が被告人に殺人を嘱託する動機となっているのであるから、殺人を嘱託する前提として話したとしても何ら不思議ではなく、むしろ、前記二2(一)のとおり、単に給料支払の話をするだけの目的で連れ込みホテル風のホテルに入ることの方が不自然であること

(3)(ア)の点については、被告人の供述を仔細に検討すれば、被告人の言わんとするところは、ビールを飲む前に被害者が言ったのは、「ここにタオルがあるよ。」という言葉であり、それで首を絞めよるように被害者が指示したのはビールを飲んだあとであるというにあると認められるのであって、検察官は、質問の際、異なる時期になされた被害者の二つの言葉を合わせて同時期になされた一つの続いた発言として、「ここにタオルがあるから、これでやってくれと言われたのは、部屋に最初に入って着席する前だということでしたね。」とその時期を尋ねたため、被告人が混乱をきたし、その質問に的確に答えられなかったばかりでなく、以下の質問にまで混乱が生じ、一見検察官主張のような矛盾が生じたと思料されること

(3)(イ)の点について、被告人は、被害者が事情が違うから短い刑期で出れると言った旨の供述に加えて、被害者は、「内容をよく警察の方で調べてもらえれば、おれの方が悪いんだから、お前は別に悪くないというとおかしいけれども、やった人間にはそういう事情があって、家庭のこととか給料のことで苦しめられてやったんだから、多少の情はあるんじゃないか。」と言ったとも供述しているのであって、右の供述全体の趣旨からは、「事情が違う」とは嘱託殺人のことを指しているのではなく、被告人が家庭のことや給料のことで苦しんできた結果、給料のことで口論して犯行に及んだ責任が被害者にあることを指していると認められるのであるから、検察官の主張は、結局、前提を欠いているといわざるを得ないこと

(10)の点については、被告人は、当公判廷において、黒澤保に対する証人尋問の時は、裁判長から「何か質問ありますか。」と言われるのを待っていたが、最後までそう言われなかったので、またあとで質問をする機会があると思って何も尋ねなかったと供述しているが、右供述の言わんとするところは、その前後の質問及び供述の内容を含めて考えれば、被告人は、裁判長の「被告人は、何かこの証人に聞きたいことはありますか。」との発問を、被告人自身に右証人を尋問する機会を与えられたものとは理解できず、言葉どおり「何か質問ありますか。」と言われるのを待っていたと考える他ないところであり、確かに、右のような誤りは通常あり得ないところではあるけれども、被告人が前記のように理解力、表現力に乏しいことに照らせば、被告人の場合に限っては、右のような誤りは必ずしもあり得ないことではないと思料されること

さらに、その他の諸点についても、以下に述べるとおり、本件関係各証拠などに照らし、いずれも被告人の公判供述の信用性を左右するものではない。

(3)(ウ)の点については、後述するように、殺人の嘱託に関する証人黒澤保及び同黒澤公子の当公判廷における各供述がそもそも信用できないものであるうえ、被害者黒澤保は渋谷での金策に失敗した後、一度自宅に戻っており、その際、被告人をしばらく玄関の外で待たせ、被害者とその妻だけが室内にいた時間があったと認められるのであるから、被害者とその妻の間で殺人の嘱託に関する話をする機会があったと思料され、検察官が主張するように、被害者とその家族の間で何の連絡もなかったと断定することはできないばかりでなく、前記のような自分さえ良ければいい勝手な性格で二枚舌の被害者が、真面目、誠実で実直な被告人を甘言を用いて欺き、生命保険金取得のために利用したものとの疑いが濃厚であること

(4)の点については、前記二2(三)のとおり、被告人の公判供述の方法による方が、犯行後の現場の状況と合致するのであって、後記四1(二)(三)のとおり、被告人の捜査供述の方法による方が矛盾点が多く生じること

(5)の点については、被害者は、最初から首を絞められれば苦痛が激しいので、始めビールびんで後頭部を殴って気絶した後に首を絞めてもらう方がより楽に死ねると考えたと見る方が合理的であり、また、自殺する場合にも、客室などを汚したりしてあとあと旅館などに迷惑をかけないように配慮することは、往々見受けられることであるから、検察官主張のように殺人を嘱託する人間が、首を絞めるに先立ってビールびんで後頭部を殴打してくれと頼んだり、殺害後死体を風呂場に入れてくれと指示したことが、不合理であるとか、保険金取得の目的と矛盾するとまではいうことができず、ましてや、この点をとらえて、作り話を真実のように見せかけようとして一見具体的な供述を繰り返したため随所に露呈した馬脚の一端であると断定することは到底できないこと

(6)の点については、前記二2(五)のとおり、被害者の指示に従って電話をかけたという被告人の供述にも合理性があると認められ、逆に、電話の内容が、せいぜい、「僕が社長と一日中お付き合いしたんですけど、お金の方が工面がつかないので、自分が頭に来てやりました、あとのことはよろしくお願いします」あるいは、「今日はお金ができるかもしれないということで、朝からぐるぐる歩いたのにだめだった、それで、その挙句に、お前の分は振込んでいると言われたので、かっとなって社長と大げんかになった、奥さんにはいろいろ気をかけていただいたのに申し訳ありませんでした。」という程度であることからすれば、検察官主張のように、罪の重大さと反省の念の入り混った心境から電話したとは認め難いこと

(7)の点については、前記二3(三)のとおり、被告人が第二回公判期日の終わりまで捜査供述を維持しようとしたことにも十分な理由が認められるのであるから、検察官の主張するところは、被告人の公判供述の信用性に疑問を生ぜしめるものとはいえないこと

(8)の点については、前記のように、被告人は、本多輔良と弁護人に嘱託の事実を打ち明けていることが認められるところ、本多に打ち明けたのは、犯行直後に同人に電話をかけて同人と会い、被害者を殺害したことを告白し、同人に伴われて自首したという経緯があるうえ、本多は会社事務所の責任者であり、会社の内容や社長である被害者についてもよく知っている人間であること、及び、警察署において本多と面会した際、偶々傍に看守者がいなかったこともあって、特に本多に打ち明けたものと考えられるのであって、肉親の者に嘱託の事実を打ち明けなかったからといって、被告人の公判供述全体の信用性に疑いを生ぜしめるものとは思われないし、また、被告人が捜査段階において弁護人に対して被害者に会いたいと言った理由につき、被害者に示談書を書いてもらいたいという趣旨と、男と男の約束だから自分の口からは言えないが、被害者の口から嘱託をしたということを証明してもらいたいという両方の気持が内心あったとしても、当時の被告人の複雑な心境からすれば、必ずしも自己矛盾とはいえないし、右の程度のことをもってしては、被告人の公判供述の信用性を左右するものとは言い難いこと

(9)の点については、被告人が第二回公判期日の終わりになって嘱託の事実を明らかにした理由として当公判廷において述べているところは、単に「二か月も勾留されていて何で自分だけが馬鹿をみなければならないのかという気になった。」というだけではなく、前記二3(三)のとおり、起訴事実を認めて裁判を早く終わらせたいという気持であったのが、公判廷でいろいろ質問されると、矛盾がでてくるので、真実を述べる気持になったなどの理由もあるというのであって、これらの理由を全体としてみれば、十分に合理的で理解し得ると認められるのであるから、被告人が供述する理由の一部のみを取り上げて不合理であるという検察官の主張は失当であるといわざるを得ないこと

四  以上に述べたところにより、既に明らかなように、本件が真実は嘱託殺人未遂の事案であることは疑いを容れないところであるが、被告人は、捜査段階から第二回公判期日において嘱託の事実を明らかにするまでの間、給料支払のことで被害者と口論となり、激昂して犯行に及んだ旨供述し、証人黒澤保、同黒澤公子も当公判廷において、被害者が被告人に殺人を嘱託したことはない旨それぞれ供述しているところ、検察官は右各供述はいずれも信用できる旨主張するので、その点について判断する。

1  被告人の捜査供述については、前記二1ないし3などにおいて、既に触れたところであるが、以下の(一)ないし(四)のとおり、不自然、不合理な点及び客観的事実に合致しない点が認められるから、これをたやすく信用することはできない。

(一) 被告人は、捜査官に対し、犯行動機について、給料支払のことで被害者と口論になり、激昂して殺意を抱いたと供述しているが、その口論は、前記二2(二)のとおり、被害者の捜査官に対する供述及び公判廷における供述に照らしても、そもそも口論といえるかどうか疑問があるばかりでなく、被告人が、誠実でおとなしい《証拠省略》、おとなしい、協調性があり、人間づき合いも良く、けんかすることもなく、気は長い方である《証拠省略》、おとなしくて真面目であり、かっとすることもない《証拠省略》といった性格であり、また、前歴、前科も全くないことからしても、右の程度の口論で激昂し、殺意まで抱いたというのは、極めて不自然であること

(二) 被告人の捜査官に対する犯行態様に関する供述のうち、最初の攻撃方法については、三畳間の座机の前に被告人と相対して座っていた被害者の背後に回り込み、その後頭部を右手で押さえて顔を座机の上に押しつけ左手に持ったビールびんで一〇回位後頭部を殴打したというのであるが、右供述は、わざわざ立って被害者の背後に回り込み、その頭を押さえたりしている点で、激昂により、それゆえとっさに敢行された犯行としては不自然であり、その際、被害者の抵抗がなかったというのも不可解であるうえ、証人黒澤保の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書とも一致せず、かつ、犯行後の三畳間の座机上の物に乱れがないという客観的事実とも矛盾していること

(三) 同様に、捜査官に対する犯行態様に関する供述のうち、三畳間に倒れた被害者を頭の方から隣の六畳間に引き入れ、そこで首を絞める前に被害者の頭の向きを三畳間の方向に向け直したという点、さらに被害者を風呂場に引き入れ、その場で被害者を見たところ死んでいないようだったので、再度ビールびんで殴打し、タオルで首を絞めている点、犯行後、被害者を殴打した際に割れたビールびんのうち、割れた時には手元に残らなかったびんの胴から底にかけての部分を拾って三畳間の座机の上にもう一本のビールびんと並べて置いている点など、いずれも激昂による犯行とは相容れない犯行態様であること

(四) 前記二2(四)のとおり、犯行直後の被告人の言動、態度がすべて落着いていて激昂のあとが認められず、激昂による殺人を敢行した後の犯人の態度としては極めて不自然なこと

2  被害者である証人黒澤保の当公判廷における供述は、後記(一)(二)のとおり、その供述内容に矛盾があり、かつ、同人には公判廷においても真実を秘匿する理由が認められるから、これもまた、にわかに措信することができない。

(一) 被害者は、被告人から最初に攻撃を受けた時の状況につき、被告人との話を打ち切って帰ろうと思い、六畳間の畳の上に置いていた上着を取ろうとして、被告人に背を向けて立上りかけた時、いきなり背後から後頭部を殴打されたと供述しているが、右供述は、被告人の捜査供述、公判供述のいずれとも一致せず、また、三畳間の座机上に置かれた明らかに被害者の物と認められる腕時計、眼鏡、たばこ、ライターの状況からは、被害者が帰り支度をしていたものとは認められないこと、六畳間の畳の上にはコートが置かれており、上着は洋服入れの中にかかっていたことなどの客観的事実とも矛盾していること

(二) 被害者は、前記二2(六)のとおり、被告人の本件犯行により危うくその一命を奪われかけるという被害を受けているにもかかわらず、被害直後から一貫して、悪いのは自分の方であるから被告人には寛大な処分を望む旨供述しているが、被害者が供述するように、たいした口論をした訳でもないのに、被告人から殺害されかけたのであれば、このような被害者の被害感情としては理解し難いものがあること

(三) 被害者は、前記二4のとおり、本件の前後を通じて、生命保険金の取得について強い動機があり、その後自殺した際にも保険金の取得を意識していたことが認められるのであって、本件犯行によっては保険金取得の目的を達することはできなかったものの、当公判廷において尋問を受けた際に、被告人に自己の殺害を嘱託し、生命保険金の取得を図ったことを明らかにすれば、自己が詐欺罪に問われる恐れがあり、また、保険契約が解除されるなどして、結局自殺によっても生命保険金を取得できなくなる恐れがあると危惧していたことは、被害者が法律や保険に関する専門的知識を有していなかったことに照らし、十分にありうることであり、したがって、事実に反して嘱託の事実を否定することにも理由があること

3  被害者が自殺に当たり、遺書として書いたと認められるメモに「甲子にわ何も頼みません」との記載があることについては、前記二4(五)でも述べたように、右メモのようなごく短い遺書に、家族のことと並べて、既に雇用関係にもない被告人のことをことさら記載するのは、自殺の動機がメモの内容どおりに単に健康への不安及び資金の目途が立たないことを理由とするものであるならば不自然であり、前記二4(三)のとおり、被害者が当公判廷においても、保険契約のことにこだわっている態度を示していたことをも合わせ考えれば、前記2(三)と同様に、本件によって不正に生命保険金の取得を図ったことが発覚すれば、その後自殺しても、生命保険金を取得できなくなるのではないかと危惧したため、わざわざ前記のような記載をなしたものと考えられ、したがって、右のメモの内容は真実を記載したものとは認め難い。

4  最後に証人黒澤公子の当公判廷における供述について検討するに、同人が当公判廷において証言したのは、被害者が自殺したことにより公子が五〇〇〇万円余りの高額の生命保険金を受取った後であること、及び、前記二4のとおり、被害者に生命保険金取得の強い動機があることに照らし、公子においても、被害者が本件により生命保険金の不正取得を図ったことが明らかになれば、既に受取った生命保険金の返還を求められることがあるのではないかと懸念していたとの疑いを払拭しきれないところであり、また、たとえ公子が、真実、被害者が被告人に対して自己の殺害を嘱託したことや、それに付随する事情を知らなかったとしても、その一事を以て、ホテルの密室内で、被害者と被告人の間のみでなされた嘱託の事実がなかったとまで断定することはできない。

五  以上の次第であって、検察官の主張はいずれも理由がないのでこれを採用することはできず、被告人が被害者から殺人の嘱託を受けた事実は、これを優に認めることができるというべきである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二〇三条、二〇二条後段に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち一八〇日を右の刑に算入することとし、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右の刑の執行を猶予し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の事情)

本件は判示のとおり嘱託殺人未遂の事案であるところ、如何に会社の社長である被害者から繰り返し殺害することを懇請されたとはいえ、軽々にこれを受け入れて犯行に及んだ点は、まことに思慮、分別に欠けた軽率な行為といわざるを得ないこと、犯行態様も極めて危険かつ執拗であって、一時的にせよ被害者の生命を危険な状態に陥らせたうえ、全治約三週間を要する傷害を負わせていることなどにかんがみると、被告人の刑責には軽視を許されないものがあるといわなければならない。しかしながら、一方、被害者にも殺人の嘱託をするにつき高額な生命保険金取得という不純な動機があったこと、被告人は被害者から利用された面がないわけではないこと、幸いにして被害者は一命をとりとめ傷害の程度も比較的軽くすんだこと、被害者は既に本件の五か月後に縊死自殺を遂げ、その結果高額な生命保険金がその妻に支払われていること、当然のことながら被害者は被告人を宥恕し寛大な処分を望んでいたこと、被告人は犯行後直ちに自首しており、逮捕以来約一〇か月に亘って身柄を拘束され、その間、反省悔悟の念を深めていると認められること、被告人には前科前歴がなく、これまで工員として真面目に稼働し、職場での評価も良好であり、妻と二人の子を扶養しながら平穏な家庭生活を営んできたものであって、再犯のおそれもないと思料されることなど被告人に有利な諸情状もかなりあるので、これらを総合勘案し、被告人に対してはその刑責を明確にしたうえ、主文掲記の刑に処するとともに、今回に限りその刑の執行を猶予することとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小川陽一 裁判官 志田洋 松本清隆)

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